※この記事は「人生を前向きに歩んでいくための心の土台づくり」と題して、前ぴょんが朝来市広報誌2018年8月号〜2019年3月号までシリーズで寄稿しているコラムの11月号分です。
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- 「比較されるキモチ」
私の学生時代からの友人に双子の姉妹がいます。二人は双子ということもあり、家庭や学校で比較されて育ちました。
両親は優等生の姉には期待をし、テストで80点を取ってもあと20点取れなかった理由を問い正していたそうです。それは前月号の「条件付きの愛」のよう。一方、学業がそれほど優秀ではなかった妹の成績が振るわなくても、そこは諦め半分(?)、「あなたなりに生きていけばいい」という反応だったようです。
そのような環境で姉は優越感を持つ一方で、引き立て役になる妹に嫌われないかと不安を感じていたそうです。また、過度な期待を受けたためか、失敗することを極度に怖がる「完璧主義者」になりました。そして、高校時代にはそのプレッシャーから解放されたくて家出をしたり、ストレスで体重が一気に10kgも減ったりと、心身ともに影響が出たようです。
一方で妹は劣等感を味わい、学校では無意識に自分の引き立て役を探し、その子よりも優位に立つことで姉が感じているような優越感を得ようとしたようです。しかし、姉とは別の高校に進学したことが転機となって周囲から比較されなくなり、もともと両親から過度な期待をされていなかたこともあってか、初めて自分の価値観を大切にすることができたそうです。
他者との比較は一時的な満足感を得られることがあっても長続きせず、不毛なもめ事まで生むこともあって、自己肯定感を育む上で悪影響しかないと私は考えています。
いずれ社会に出ればいや応なく比較されることがあるでしょう。だからこそ家庭では比較も過度な条件付けもせず、一人ひとりの個性を尊重することが大切だと思います。そして、外で比較されてつらくなった時に自分自身をリセットできる場として家庭が機能すれば、強くしなやかに生きやすくなるんだろうと私は思います。
そう言えば世界一の安打数を誇るイチロー選手でさえ、首位打者ではなく他者との比較によらない「年間200本安打」をずっと目標に掲げていたのは、何かそんな理由があるのかな。
来月は「常識への囚われ」について考えていきたいと思います。
朝来市広報誌2018年11月号