所長の研究日誌

このブログを書いている人

NPO法人他力本願研究所 所長
前川進介

物事の考え方や捉え方、人の感情のあれやこれやについて自由に書きまーす

「分かってもらえなくて寂しい」のは、ヒマだからみたい

一般的でなくて細かいから分かってもらえない

この1,2年、私は「分かってほしいのに、分かってもらえなくて寂しい」という悩みを持っていました。私は寂しがりやなんで、分かって欲しいという気持ちが人一倍強いんだと思います。だからより分かりやすい説明を心がけているんですが、それでも分かってもらえないことが多いんですね。特に市役所には、なかなか理解してもらえません。今日も窓口で、、(割愛)

その一因は、私の言動があまり一般的でないことだと考えています。一般的でないので、「常識」や「前例踏襲」を判断基準に持っている人からは私の言動はまず理解してもらえません。例えば、以前に学校に行ったら社会不適合者になるという旨のブログを書きましたが(そこまでは書いてないかw)、こういうことを書いて理解してくれる人はごく一部です。

また、「細かい」という点も一因だと思います。細かさは理解の必要条件だと考えているので、物事や相手のことを理解しようと思うと、どうしても細かい男になってしまいます。

例えば以前通っていたカウンセラー養成講座のロールプレイングの際に、カウンセラー役にこの「分かってもらえない寂しさ」を打ち明けてみると、「前川さんは、周りの人の意見が自分の意見と違うから腹立たしいんですね」と、原因も結果も間違った応答をされることがしばしばあって、打ち明けて余計にストレスが溜まったことがありました。

私は私が発する内容を人に理解してもらえなくて寂しい思いをしているだけであって、人と意見が同じでないことに腹立たしさを感じているわけではありません。理解したうえで、私はあなたとは違う考えだ、という人たちとはたいてい分かり合えるので仲良くやれます。仲良くなれないのは、私の意見を理解もせずに、あいつはおかしなことを言うやつだ、とレッテルを貼る人たちです。理解力の欠如は、偏見や差別を助長するんですよ、ほんと。

ね、細かいでしょ。。

さてさて、そんなわけで私は「分かってもらえない寂しさ」を持ち合わせて生きてきたんですが、先日、そんな寂しさから卒業しようかな、と思わされる出来事が2日連続でありました。

元うつの前ぴょんから見た、この国の矛盾(学校教育編)

こんにちは、前ぴょんでーす。

朝晩涼しくなって過ごしやすくなったこの季節、学校ではそろそろ新学期が始まりますね。

巷では嫌だったら学校に行かなくていいよ、いやいや行くべきでしょ、などと、いろんな議論がなされていますが、新学期に限らず、私は行きたかったら行ったらいいし、行きたくなかったら気軽に休んでしまえばいいのに、と思っています。それにはそれなりの理由があるので、今回はそれを書いてみようかな、と。

私は自分自身が鬱になった経験から、学校教育の在り方にこの国の闇が潜んでいるんじゃないかと感じるようになったんですが、その中でも最も憂いていることの一つに、「独裁主義」「共産主義」による洗脳があります。なんか言い方がキツくなっちゃうけど。

日本って一応、政治は「民主主義」で運営されていて、経済は「資本主義」で回っているじゃないですか。ところが、その国の教育機関が、民主主義と資本主義の真逆の、独裁主義と共産主義の思想を持っているように見えるんですね。

「他力本願」な生き方、在り方

2018年、私たちは「NPO法人 他力本願研究所」を立ち上げました。

今回はこの「NPO法人 他力本願研究所」を立ち上げるまでの経緯やその根底にある思いなどについて触れたいと思います。

 

まず、前提のお話から。
この「他力本願」とは、元来は「他人の力を利用して事を成すこと」を意味しているわけではありません。それは世に蔓延している誤用です。
(※2019年3月11日追記※ しかしもはや誤用が定着し、辞書にも「自分の力でなく、他人の力によって望みをかなえようとすること。」と記載されるようになりました。)

私もこの言葉の元来の意味は最近知ったのですが、元は仏教用語で、死ぬ間際でもいいから「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば阿弥陀仏によって救済される(≒極楽浄土に連れて行ってもらえる?)という、浄土真宗の教義根幹に関わる教えのようです。

「のようです」と伝聞にしているのは、私は無宗教で、浄土真宗のことも詳しくは知らないから。だけど、そんな私でもこの「他力本願」という言葉の意味を知った時には、なんて素敵な捉え方なんだ、と思ったのと同時に、何か肩の力が抜けた感覚を得ました。

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