こんにちは、前ぴょんでーす。

朝晩涼しくなって過ごしやすくなったこの季節、学校ではそろそろ新学期が始まりますね。

巷では嫌だったら学校に行かなくていいよ、いやいや行くべきでしょ、などと、いろんな議論がなされていますが、新学期に限らず、私は行きたかったら行ったらいいし、行きたくなかったら気軽に休んでしまえばいいのに、と思っています。それにはそれなりの理由があるので、今回はそれを書いてみようかな、と。

私は自分自身が鬱になった経験から、学校教育の在り方にこの国の闇が潜んでいるんじゃないかと感じるようになったんですが、その中でも最も憂いていることの一つに、「独裁主義」「共産主義」による洗脳があります。なんか言い方がキツくなっちゃうけど。

日本って一応、政治は「民主主義」で運営されていて、経済は「資本主義」で回っているじゃないですか。ところが、その国の教育機関が、民主主義と資本主義の真逆の、独裁主義と共産主義の思想を持っているように見えるんですね。

 

 

●民主主義⇄独裁主義

【多くの学校が独裁主義】
まず、多くの学校の政治の在り方が教員による独裁主義じゃないですか?児童・生徒は教員の言うことには従わなければならない。教員の言うことを聞き入れる子が「素直」と褒められ、一般的でない意見を主張する子は「自分勝手」の烙印を押される。そんな環境で児童・生徒が自ら考え、立案し、アクションを起こすなんていうことはなかなかなか難しいでしょう。

一応形式的に児童会・生徒会の役員選挙をやって民主主義の様相を見せていますが、そんなのは部分的で見せかけの民主主義です。なぜならその児童会や生徒会の上には教員が居て、児童会・生徒会は多くの場合その教員の言うことに従わなければならないからです。全体を俯瞰して眺めると、結局教員による独裁なんです。

 

【国民主権というマインドが失せているから、当然ながら若者の投票率は低い】
だから、例えば生徒同士で「文化祭でこんな楽しいことやろうぜ!」っていう話が上がっても、教員が「それはダメだ!」と言ってしまえば、そのアイデアは叶わぬ夢となって消えていきます。そうすると、

「どうせこれもアカンって言われるんやろなぁ。」

と諦めが基本になってしまい、生徒一人ひとりに主権がある民主主義の楽しさを実感することが困難になります。うちの学習塾の生徒もそういう学校の体質によく不満をこぼしていました。

昔からですが、国政選挙や自治体の首長・議員選挙において若者の投票率の低迷が問題視されていますが、そんなもん当たり前やんけ、って思いますよ(笑)。民主主義の楽しさを奪われて実感できていない若者が、そりゃ自ら進んで投票になんて行かないでしょうよ。よほど意識の高い層は別でしょうが、そんな人はどの世代も一握りです。

結局、学校という独裁主義の場に馴染んでしまったら、民主主義社会にジョインするのに時間がかかるんです。投票率からして顕著なのに、なんでそこに踏み込まないんだろう?中には学校で模擬の市長選挙を行なって意識改革をしている高校もあります。確かにそういう方法もアリですよね。やらないよりやった方がいいと思います。ただ、なんかブレーキかけながらアクセルを踏んでるような印象。そのブレーキ(独裁)を開放するだけでも若者の民主化は加速しそうですけどね。

だから児童・生徒が教員の支配下にいてはこの国の民主政治が成熟していかないと思っています。教員のトップである学校長と、児童会・生徒会がイーブンな立場を取らないとね。ちょうど自治体の首長と議会がイーブンな力関係にあるのと同じで。教員は県職員・市職員みたいなもの。みたいなものというか、そのままか(笑)

 

【中には民主主義的な学校や部活動もあって、個人的に好き】
中には児童・生徒の主体性を尊重したマネジメントをしている学校もあるでしょうし、学校全体じゃなくても部活動でその思想を取り入れている学校もあります。そういうの、個人的に好きです。

私のお友達の金信志氏は県立高校のサッカー部の顧問ですが、生徒の主体性を高めるボトムアップ理論を取り入れ、練習メニューから部活のルール、それに大会本番の選手交代の指示まで、すべての決定を生徒たちに委ねるというマネジメントで、強豪ひしめく兵庫県大会で我が母校をベスト8まで導いた変態、あ、じゃなく、いや、変態でなくもないか、まぁ言わば民主主義の天才です。曰く、「木の上に立って見守る『親』の心境ですね。親になったことないけど(笑)」だそう。

また、今年の夏も甲子園球場で「全国高等学校野球選手権大会」が開かれましたが、私が注目したのは、いつもノーサインの常葉大学附属菊川高校。高橋監督は、「自分たちの判断でやりなさい」「ぼくは守備位置の確認とか選手を支える言葉をかけるくらい」とじっと見守るだけ。ベスト16まで勝ち進んだんかな。試合はダイジェストでしか確認してないけど、走塁にしたって守備にしたって、選手一人ひとりが自分の頭で考えて臨機応変に動いているのが垣間見れました。また、選手交代のタイミングも選手と相談して決めるというのが、なんか首長が議会承認を取ってるようなもんじゃないですか?(笑)上も下もない、イーブン。

これらの取り組みは、この民主主義社会の日本における教育機関の在り方として、極めて健全だと思うわけです。

 

【民主主義⇄独裁主義のまとめ】
学校はあくまでもこの社会を生きる人材を育成する機関だから、学校という小さな社会で体験的に身につけた感覚が、実社会に出た時に影響を及ぼして当たり前。学校で独裁される感覚を身につけたら、社会に出てからも独裁される感覚で諦めモードになるでしょうし、学校で民主化の感覚を身につけたら、社会に出てからも国民主権を謳い、この国の民主主義を成熟へと牽引していってくれることでしょう。

だからこそ児童・生徒に民主主義の醍醐味を味わってもらえるような学校運営が求められるんだろうけど、とは言え、今教壇に立つ教員だって、何かしら支配されて育てられてきた人が多いだろうから、下の者には支配的になり、上の者に支配されることを不思議だと思わない。そういう負のスパイラルが続いているんでしょうね。

でもどこかでこの世代間連鎖を断ち切らないと、日本の民主主義は成熟しないので、まずは現場の教員が民主主義の楽しさを体感することが必要なんでしょうね。そう思ってNPO法人他力本願研究所では、教員自らが自己開示の楽しさを感じることができ、さらに他者が自己開示したくなるような場づくりのノウハウを体験的に学ぶことができる「教員向けファシリテーション塾」を開催しております(宣伝w)

 

 

●資本主義社会⇄共産主義社会

【競争から生まれる感情はモチベーションを高める】
続いて経済の思想。日本の経済は資本主義のメカニズムに則って動いています。それはそれは熾烈な競争社会で、私は「平等」を感じることなんて滅多にありません。

だからそんな競争社会でも生き抜いていけるだけの知力、体力、精神力を身につけていくことが、現実的には求められているのだろうと私は考えていますし、私自身はそういう人材育成をしているつもりです。

また私は、競い合うことは成長の大きなキッカケだとも考えています。競い合う中で、例えばかけっこで1位、2位、3位、4位と順位がついたら、上位の者は歓喜に沸き、下位の者は悔しがるかもしれません。

そういう感情が湧いた時が、成長するチャンスです。嬉しい、楽しいから、もっと続ける。悔しい、悲しいから、次こそはともっと頑張る。感情を上手にコントロールできるようになると、結果を利用して努力をすることが可能です。モチベーションの源泉が「競争」の中にもあるのです。

 

【順位づけは自己理解を促す】
また、順位がついて、他者と比べることで、自分はスタートが遅いのか、スタミナがないのか、フォームが悪いのか、という自己理解が進みます。自己理解が進むからこそ、自分が成長するためには何をするべきなのかが明確になり、闇雲に努力するのではなく、適切な努力の内容を見出すことができるのです。努力は人を裏切らないなんていうのは誇張表現だと思いますが、適切な努力は人を成長させます。

また、あまりに足が遅いのであれば、スポーツの道を諦め、芸術の道に走ってもいいかもしれません。それも自分の適性です。足が速いやつもいれば遅いやつもいる、頭の回転が速いやつもいれば遅いやつもいる、歌が上手いやつもいれば下手なやつもいる。

そうやって自分の適性を知り、それぞれの得意分野で個性を発揮し合い、認め合うことが現実社会で平和的に暮らすことに繋がると考えています。

 

【競争や比較で注意したい、事実と解釈を分けて考える、ということ】
ただし、「競争」や「比較」において誤解してほしくないことがあります。

確かに、モチベーションを上げることや自分の特徴を知るための手段として、他者と比較することは有効ですが、生じた結果に何かしらの解釈を付けるときは細心の注意が必要です。「上位だから良い、素晴らしい」、「下位だからダメだ、もっと頑張れ」とかいう短絡的で論理が飛躍している意味付けや解釈は、危険です。まずそこにあるのは、「何位だったかという事実のみ」です。

これ、すごく大事なことです。つまり、事実と解釈を分けて考えるということです。良いとか悪いとか、それは解釈の押し付けという名の、「洗脳」ですから。

こうした論理的に考える習慣は、自己肯定感を高めることにも繋がると私は考えています。自己肯定感が高まれば、強くしなやかに生きていきやすくなります。

多くの子ども、いや、大人も含めて、事実と解釈を分けて考えることができていないから、自己肯定感も高まらず、下位になった人が「自分はダメなんだ」と辛い思いをしてしまったり、異なる解釈を持っている人とコミュニケーショントラブルを起こして不要な争い(真っ当な競争じゃなく)を起こしてしまったりするのです。

 

【「失敗&成長の好ループ」を学校で身につけておいてほしい】
「失敗」にも同じことが言えます。「失敗した自分はダメなんだ」と思いがちですが、「失敗」はただの「失敗」。失敗したからと言ってダメというわけではない。

私は経験から、失敗から学べることは、成功から学べることより多くあると思っています。その理由はまた別の機会に触れようと思いますが、なんせ、学校は教育機関なんだから、学ぶことに重きを置くなら、皆に平等に用意された安っぽい「成功」よりも、日常で起こりうる「失敗」や「敗北」は取り除かずに経験させた方が良い学びになるでしょう。だからこそ「失敗」=ダメという短絡的な発想を断ち切って、自己肯定感を高める場であってほしいんです。

それは生涯教育の観点からも言えることです。失敗を恐れて良い学びが得られない大人がどれだけ多いか。ま、それは程度問題だから私も人のこと言えませんが(笑)

ちょっと言いにくいことではありますが、社会人になってからの「失敗」は経済的な損失を出したりするので、経営者目線で見ると従業員に思い切って失敗させにくいんですよ(笑)まぁそれでも成長のために失敗を見守りますけどね。でもできれば予め学校で、失敗&成長の好ループを生み出せる人材育成をしといてもらった方が助かるわ、だって児童・生徒が失敗したって誰も経済的な負担を強いられないでしょ、っていうのが正直な気持ちです。

 

【勝利至上主義は教育ではない】
あ、ちなみに競争して勝ちさえすればいい「勝利至上主義」も、創意工夫が足りていないと思っています。勝てばいい、なんていうのは「教育」じゃない。「教育」っていう言葉の意味を辞書で引けばわかることです。

きょう‐いく〔ケウ‐〕【教育】
[名](スル)
1 ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。
デジタル大辞泉(小学館)より抜粋

競争させることで終わるのではなく、競わせた結果から、結果がどうであれ、その結果の原因が何かを分析し、その結果にどのような意味を持たせ、そこからどう成長していくのかを考える。そのような行程を意図的、計画的に入れて望ましい姿に変化させないとそれは教育ではありません。そう考えると私の中学時代の恩師、大西先生は偉大だったな。
村長ブログ 「権利と責任」大西先生から学んだこと

 

【資本主義思想の中での人材育成】
社会に出たらどうしたって競争に巻き込まれます。他者と比較されます。そんな時でも動じずに発揮できる思考力、精神力を身につけておくことが、この資本主義社会で生き抜く力を養うことに繋がるんじゃないでしょうか。人は特に感情が動く時ほど成長しやすい一方で、事実と解釈をごっちゃにしがちでもありますから、社会に出る前の段階で、学校で競争した結果や失敗で感情が大きく動いた時こそ、こういう考え方を叩き込むトレーニングのチャンスなんだと思います。結果に左右されない生き方ができるチャンスです。

 

【共産主義的な思想があると、資本主義社会の中で苦しむことになる】
というわけで、学校でも資本主義の考え方、思想を叩き込んで欲しいところなんですが、現場の教員ってなんでもかんでも平等であるべきだという共産主義的な思想を持っている人が多くて、その現実離れ感にドン引きすることがあります。そう、現実離れ、この国のリアルに即してないんですよね。

現実は資本主義なのに、その類の教員にとってはそもそもその資本主義社会の在り方がおかしいんだから、理想的な共産主義的な環境設定をしましょう、ってなわけで、例えば

→運動会のかけっこでゴールした順位順に並べない、ゴールまで頑張ったみんな平等に金メダル授与!

みたいな、競争の要素を極力見せない、「理想的」で「平等」な環境を作られることがしばしばあります。

確かに共産主義の思想って、美しいと思うんですよ。皆が平等な世界観、環境って。だけどその環境っていうのは学校内だけで創られるものであって、現実社会に出たらそんな環境は用意されていません。学校の外には180度異なる競争社会があるわけです。競争を知らない、つまり自分の適性もわからず、十分に能力を上げることができていない子どもたちが、熾烈な競争社会に出ていくことは、狩りをすることも敵から身を守ることもできないまま育ってしまった小動物がサバンナの真ん中に置いてけぼりにされるようなもんちゃいますか。かわいそうに。

このように、誰もが同じスタートラインに立てるという機会は平等でも、結果(メダルの色や有無)は平等じゃないということを認識させてあげないと、社会に出てから苦しむことになります。「理想(共産主義)と現実(資本主義)とのギャップ」が大きくなり、入社後しばらくでこんな会社ではやってられないと会社を辞めたり、無理してそのギャップを埋めようとして鬱になったり、機能不全に陥りがちです。

 

【共産主義は他責の温床】
さらにさらに、教育現場における共産主義が良くないと思うのは、「理想」を個人ではなく社会に求めている点で、そうなると自分を省みず、資本主義の社会が悪い!環境が悪い!ってなりがち。そりゃそうよね、そういう教育を受けてきたら、社会や環境のせいにしたくなるよね。ただし残念なことに、批判のベクトルを自分の内側でなく、外側に向けた時点で、その人の成長は止まります。本来であれば生涯に渡って学ぶ意欲を身につけてもらいたい学校において、その人の成長を止めようと導くのは、ナンセンス極まりない気がしてます。

成長して力をつけないと依存からは脱却できないし、自立できない依存状態にありながら、精神的に解放された豊かな人生を送るのは難しい。だから他責のスタンスでは、、豊かな人生は遠く彼方かな。。

やはり、社会を変えるんじゃない、まずは自分を変える。
そういう個人が増えた時に、社会が変わるんだと思います。

 

【資本主義⇄共産主義のまとめ】
資本主義だと、理不尽な環境でも、いかに生き抜くかを考える人材を育成するのに適しています。

また、競争にさらされ感情がざわついている若者が居たならば、結果と解釈を分けて考える思考を伝え、自己肯定感を育み、さらに自分の適性を見い出し、適切な努力を積めるよう、意図的、計画的に働きかけることが、教育現場において求められているんじゃないでしょうか。

だから競争はチャンス、育成のチャンス、その人がその人らしい生き方をできるようになるチャンスなんだと思います。

「理想的」でない環境に文句を言うのを辞めるべく共産主義的思想をアンインストールし、この現実社会で生きていくために資本主義的思想をインストールし直すことができた人は、この社会にうまく適合することになるでしょうが、それをなし得なかった人は、残念ながら理想と現実とのギャップに苦しみ続けることになるのではないかと危惧しています。

 

 

●だから学校に行かなくてもいい(行ってもいい)

人間って自らに植え付けられた思想を変えることって、めっちゃ難しいと感じるんですよ。幸か不幸か、私は鬱になってそれまでの自分を一旦全部ぶち壊せたから、いろんな思想を新たにインストールすることができたけど(だから『鬱は創造的自己破壊』だと思ったの)、そうでもなければたいへんなことですよ。だからできることならこの国の教育機関は、初等教育の段階から、この国で生きやすくなるような思想をインストールしてあげてほしいな。じゃないと、ほんと、社会に出てから苦しんむ若者が減らないんじゃないでしょうかね。

それができないなら、学校では教科教育のみを教えるようにすればいいし、そうなったらネットで十分、ってことにもなるのかな、ならないのかな。ま、ならないんだろうな(笑)

 

一応、誤解のないように書きますと、私は、
民主主義が良い、独裁主義はダメだ。
資本主義が良い、共産主義はダメだ。
と言っているわけではありません。個人的には、

「政治は良識のあるトップが君臨する独裁主義で、経済は福祉の手厚い資本主義」

が好きなくらいですから。
(これはこれで話せば長くなるのでその理由は割愛しますが)

ただただ、私が言いたいのは、この国の教育行政・教育機関は、子どもたちにこの国の在り方に沿った思想をインストールしてあげてほしい、ということです。

だから、現実に即さない思想をインストールされるくらいなら、もう学校には行かなくていいんじゃないかな、と個人的には思いますね。もちろん行きたかったら行ったらいいけど。それも、子どもの権利だし。