こんにちは。
まえぴょんです。
「NPO法人他力本願研究所」っていう名称、自分で命名しておきながら言うのもなんですが、とても気に入っています。
先日も初対面の人に名刺を渡すと、「お!え!?」みたいな反応が返ってきて掴みはOK!その後の会話も弾みました。
ただ、設立当初から批判もあるだろうなぁ、と思っていた通り、この名称を不快に思われる方もいらっしゃるということを、我々は改めて認識させられる出来事がありました。
表題の通り、石田さんという浄土真宗本願寺派の僧侶から、NPO法人他力本願研究所の「本願」という言葉を削除してほしいとの依頼がfacebookページに寄せられました。「他力本願」という言葉は元は仏教用語であり、我々の言葉遣いが本職の方からすると居心地が悪くモヤモヤさせてしまっているようでした。
結論から申し上げると、
ウェブサイトに記載している「自力本願」という表記が誤解を与えかねないため、自力本願に、
「自力本願(?)」こんな言葉はありませんが……」
という表記を追記することを弊社が行い、「他力本願」という表記に関して石田さんには是認はしないが黙認していただく方向で話がまとまりました。
今回、その一連の出来事をブログに掲載するわけですが、その目的は3点あります。
①「他力本願」という言葉遣いについて陰で「誤用だ」「こいつらわかってない」「無知だ」と批判をする人たちがいるので、誤用とも言い切れないし、元来の意味も知っているよ、ということをお伝えしたいから。
②とは言え、素人の私よりも本職の石田さんが語られる「他力本願」の内容の方がとても奥深いものがあったので、それを一人でも多くの人に共有したいから。
③今回の議論がお互いを尊重し合っているように見受けられ、とても豊かさを感じられる批判であり、他者を批判する時の参考になると思ったから。
ではまず①について。
①「他力本願」という言葉遣いについて陰で「誤用だ」「こいつらわかってない」「無知だ」と批判をする人たちがいるので、誤用とも言い切れないし、元来の意味も知っているよ、ということをお伝えしたいから。
ある女性が当社のウェブサイトをシェアして「他力本願」の意味を間違ってるとfacebookで公開設定で投稿し、
「多分ですけど、辞書を引くどころかネットでググることすらしない方なのではないでしょうか。こういう書き方をする人というのは、その内容も我流の思い込みが強いかも…と思われてもしかたないですよね。」
などというコメントで批判をされていました。
それに対して、
「多分ですけど、オレのことをググることすらしない方なのではないでしょうか。そういう書き方する人というのは、その内容も我流の思い込みが強いかも…と思われてもしかたないですよね。」
というブーメランをコメント欄に書き込もうと思ったんですが、友達以外は閲覧はできても書き込みができなかったので、せめてものリアクションとして「いいね!」「うけるね!」をクリックしておきました。うけるね!
基本的に私は我流かもしれませんが、ブログに自分の文章を書く際は、相当調べます。言葉の意味を調べるために、何度も何度も辞書を引きます。そうして文章のパーツを明確にしたうえで全体のロジックを筋道立てて正確に積み上げ、やっとブログとして公開するようにしています。まぁそれでも間違えることはありますけどね。
ですので、
>辞書を引くどころかネットでググることすらしない方
というのはそれこそ彼女の「思い込みが強い」のではないかと思います。
私はこの批判記事を読んだ時に、複雑な気持ちになりました。
まずは自分のことをわかってもらえなくて寂しいと感じました。まぁ、寂しがりやなんで(笑)
そして時間が経つにつれ、こうして事実関係を調べもせず推測で公開処刑をする人たちが、このネット社会の生きづらさを助長しているんだろうなと考え、腹立たしく、そして残念に思いました。
私はそこまで大きなショックを受けていませんが、このような事実に基づかない拡散をすると傷つく人がいるでしょうに。そういう人の気持ちを考えられない人に対しては、残念な気持ちになります。
さて、「他力本願」を辞書で引くと、
たりき-ほんがん【他力本願】
1 《他力(阿弥陀仏)の本願の意》仏語。自らの修行の功徳によって悟りを得るのでなく、阿弥陀仏の本願によって救済されること。浄土教の言葉。
2 《誤用が定着したものか》俗に、自分の努力でするのではなく、他人がしてくれることに期待をかけること。人まかせ。
出典:デジタル大辞泉
とあります。誤用が定着して、2の人任せの意味があるのです。その意味が辞書に掲載されている以上、誤用とは言い切れません。
そもそも、言葉とは変わり続けるものです。
最近では「全然〜ある」という「全然+肯定」のセットが定着しましたが、10年前にそのような遣われ方はありませんでした。だから、「全然+肯定」が世の中で遣われ始めた頃、「全然+否定」こそが正しくて、「全然+肯定」は「日本語の乱れ」と評されていました。
でもね、実は昭和初期まで「全然+否定」という遣われ方はなく、「全然+肯定」しかなかったのです。
「全然+肯定」→「全然+否定」→「全然+肯定も否定もOK」
というのが「全然」の変遷であり、このように日本語は「乱れる」ものなんです。
加えて言うと、常用漢字や現代仮名遣いなど国語表記の制定を行なっている文化庁は、誤用であっても定着した用法は認めるべきだという方針を出しているようですから、「日本語の乱れ」を正すのではなく受け入れるスタンスですね。
まぁ誤用が定着して、その意味でお互いが意思疎通できるのであれば、言語としての役割は果たせているわけですから、私も特に問題は感じません。
と言うわけで、「他力本願」という言葉に関して、私は元の意味も転じて定着した新しい意味も知っていますし、無知でもなければネットでググることすらしない思い込みの強い人間でもないということをアピールしておきます。
さて、続いて②③についてです。
②とは言え、素人の私よりも本職の石田さんが語られる「他力本願」の内容の方がとても奥深いものがあったので、それを一人でも多くの人に共有したいから。
③今回の議論がお互いを尊重し合っているように見受けられ、とても豊かさを感じられる批判であり、他者を批判する時の参考になると思ったから。
これはもう以下の対話を読んでいただければと思います。
石田さんより
はじめまして。
ぶしつけなお願いで恐縮ですが、貴研究所のお名前から「本願」という言葉を削除してくださいませんか。
というのは、貴研究所のなさっていることには「本願」という言葉で示されるべき内容がないからです。
「本願」という言葉は、わたしが大事にしている宗教的な難しい要素を抜きにして、普通の言葉として解釈すれば、「本当の願い」とか「本来の願い」となる、……ように思います。
しかし、貴研究所で大事になさっているのは、自力では辛くなる方に、もう少し肩の力を抜いて、他者の力や、自分以外のもろもろの巡り合わせなどにもまかせつつ、そんなに熱くならずに、さしあたって、やっていきましょう、……ということのように、紹介文を読む限りでは、思えました。尊い提言と受け止めます。ありがたいです。
貴研究所では、おそらく、本当の願い、本来の願い、そういうものがあるとしても、今はさしあたって、おいておいて、ゆるく考えることができたらいいな、そうしているうちに却って道が開けることがある、鬱になる前に、力を抜く方法を考えていきましょう、 …… ということを勧めてくださっているように思えます。
だから「本願」は外した方が貴研究所の、本来の・本当の趣旨にかなった名称になるのではないかと思われます。
なお、余談ですが、「他力本願」という言葉の「他力」は、本来は、 自分が浄土往生をする際に、自分の力で往生するか、それとも阿弥陀如来の力で往生するかの二択を迫られたときの、「唯一の他」としての阿弥陀如来の力のことです。英語で言えば「other power」ではなく「the other power」となります。けっして単純な「他者の力」ではないのです。
文中に「自力本願」という言葉が出てきますが、ですからこれは言葉として成立していません。「他力本願」という言葉から単純に対語として導き出された言葉のようですが、たとえば『大辞林』という辞書では、見出しではない語としてほんの一時期掲載されたものの、版が改まったおりに、削除されています。
日常生活において、自力で、一般的な願いを叶えていくとき、そこにわたしたちの「本来の」「本当の」願いは、恐らくありません。すべては「さしあたっての」願いです。熟語的に表現すれば「当願」だと思います。
ということで、(どういうことだ?)すみません、どうも居心地が悪くモヤモヤしてしまうので、貴研究所のお名前から、「本願」ということばを削除していただくわけにはまいりませんでしょうか。
こと研究所のお名前ですから、困難極まるのかもわかりませんが、よろしかったら、ご一考くだされば、ありがたいです。
(とは言いつつ、ほぼ不可能なお願いをしているようだなあとも思います。)
ただ、「これがわたしの本当の願いだ!」と強く強く思い込んで頑張りすぎて心が折れていくものでもあると思うので、「本願」は外した方が、貴研究所の本来の趣旨に沿うような気が、本当に、いたしております。
差し支えなければ「他力当願研究所」という名称のほうが、本来の趣旨に沿うような気もいたします。
以上、失礼な内容で申し訳ありませんが、出来ましたら、お願い申し上げます。
失礼いたします。
前川より
石田さま
初めまして。
代表の前川と申します。
貴重なご意見、ありがとうございます。宗教上の言葉ですので、設立当初からこのようなご批判を受けるだろうとは思っていましたが、石田さまに限ってはとても丁寧な文面で真摯な姿勢で、この批判すら感謝しております。ありがとうございます。
私は一応「他力本願」のことは勉強したつもりではありますが、まだまだ理解が浅い状態です。
その「他力本願」の概念上の相違があれば、こういった話が噛み合いにくいと思いますので、もしよければ、石田さまが捉えていらっしゃる「他力本願」の意味を教えていただけないでしょうか?
私ももっと深く学びたいという思いもありまして、この機会にぜひ教えていただければ幸いです。
石田さんより
前川さま。
ぶしつけな内容であったのにも拘わらず、迅速にご返信くださり誠にありがとうございます。
他力本願の概念は、「他力」イコール「本願」でもあります。阿弥陀如来の本来の願いが、ただ願われるだけで終わったのではなく、完成されたことによって発揮される力を「本願力」とも言います。
ちょっと目的の違う文章ですが、この『他力本願のすすめ』という本のレビューに、概念のあらましは書いているように思います。でも言葉が足りていないところもあると思います。よろしければお尋ねください。わかる範囲でお答えいたします。先輩にも聞きます。
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/review/4022734426/R3UM72TX8UL8X8?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp
誤解してほしくない概念ではありますが、もうこれだけ人口に膾炙してしまいましたので、仕方ないかなあとも思います。また、おそらくわたしたちの僧侶の、先の時代の先輩たちが、使ってほしくない意味で率先して使ったから、一般にも広まったのかなあ、とも思っております。実際のところはわかりませんが。
前川より
早速ありがとうございます!
ちょっと今から会議があるので、後でじっくりと拝見させていただきます。流し読んで腑に落ちるような次元ではないと思いますので。
お返事が遅くなってしまうかもしれませんが、必ずお返事いたしますので、それまでお待ちいただければ幸いです。
ちなみに、なんですが、弊社のことはどこでご存知になられたんですか? (この質問は興味本位です。すみません。)
石田さんより
ありがとうございます。急がなくてぜんぜん構いません。わたしもご飯などあります。
貴研究所のことは、同じ浄土真宗の僧侶がシェアしてくれて、それで知りました。
趣旨には賛同するのだけど、そしていまさら「他力本願」の「誤用」の話ではあるけれど、それでもやっぱり言葉が何かモヤモヤする!というニュアンスでした。
前川より
おはようございます。
ご返信ありがとうございました。
まず、私たちの趣旨に賛同していただいているようで、ありがとうございます。
そして「誤用」の件ですが、実はこの「誤用」を敢えて行おうと思ってこの法人名にしました。そのあたりのことはこのブログに書いてございます。
要は誤用の「他力本願」が浸透している今の世の中において、この会社のネーミングで
「他力本願!?」
と気を引かせ、その後に仏教用語としての意味を知ってもらう、というのもアリだろうと考えました。
ちなみにこのブログはライトな書き方で、本職の方からすると失礼にあたるかもしれません。ただ、我々が訴えかけたいターゲットを考慮すると、これくらいライトな方が私たちの趣旨が伝わりやすいのかな、とも思いました。
そして社名に他力本願という言葉を入れる以上、一応は「他力本願」という言葉の意味を自分なりには理解しようと思いまして、極めて薄っぺらくはありますが、勉強はしました。
そして私の理解が本来の意味と完全一致しているかどうかはわからなかったので、ブログの中では自分で言い切らず、伝聞で伝えるようにしました。加えて、このブログの中で
>「他力本願」な生き方
と表現している箇所があるんですが、
・「」を使っている
・「〜の」ではなく「〜な」と表現している
という2点がこれも私の理解の不足に保険をかけているかのような表現でして、まず「」を使うことで、本来の意味ではないかもしれないことを指し示しました。そして「〜の」ではなく「〜な」と表現しているのは、「他力本願」について、客観ではなくあくまでも私の主観であることを暗に示しています。
要は、私は他力本願を胸を張って語るに至っていないと考えてのことです。
ただ一方で、言葉とは生き物のように変化していくもので、石田さまもおっしゃるように世間では誤用が一般に広がっており、もはやその転じた意味の方が広く知られるようになりました。これは他力本願に限った話ではなく、「日本語の乱れ」とも評されますが、言葉とはそのように誤用が定着し、変化していくものだと受け止めています。
「檄を飛ばす」「姑息」
など、私もムズムズすることがあり、一応誤用である場合は発信者に伝えることもありますが、そこで無理に改める必要もないかな、とも思うようになりました。というのも、言葉とはそもそも自分の頭で思考し、他者と意思疎通するためにあるもので、誤用であることがわかったということは、互いがその誤用の解釈でコミュニケーションを取れば目的が達成されると考えたからです。
つまり、誤用の「他力本願」も他力本願の意味として捉えることもできるため、私のような浄土真宗を理解していない人間でも、この法人名を名乗ることに問題はないだろうと考えました。
とは言え、本来の意味を知ることは大切だと考えています。ですから、私たちNPO法人に関わる一般の人たちが誤用スタートであったとしても、関わるうちに他力本願の元の意味を知り、仏教に興味を持たれ、救われていくようになれば、それはそれで素晴らしいことだと考えています。少なくとも私は私なりの解釈ですが「他力本願」という教えに救われましたから、同じような心境に至る人が一人でも増えるならば、この活動をしている甲斐があると考えています。
言い訳が長くなってしまいましたが、そのような経緯があって、このNPO法人他力本願研究所を名乗るようになりました。
いずれにしても、冒頭でもお伝えしたように、石田さまがまず私たちの趣旨に賛同していただけていることを嬉しく思いますし、またこのように尊重し合いながらコミュニケーションを取ることができている現状にありがたみを感じています。
私もまだまだ不勉強ですので、またご意見いただければ幸いです。
石田さんより
おはようございます。返信くださっていたにも拘わらず1日何も返信せずにいて、すみません。言い訳をいたしますと、考えがうまくまとまらなかったからです。移動等もありましたが。もやもやが残ったままで返信いたします。
「誤用」をあえて行おうとされていること、また、その理由が、注目を集めるためであり、また、かえって「誤用」の名称のほうが研究所が訴えかけたい人にアピールできると考えているためであること、ともに承りました。
そういうことでありましたら、致し方ないと思います。また「誤用」と書きましたが、辞書にも載っていますから、完全に誤用とは言えないようにも思います。
とにかく、理解しました。
活動が素晴らしいので、「他力本願」、是認はいたしませんが、黙認しようとする努力を始めます。
そういえば、押井守という映画監督が『他力本願』という本を上梓されています。わたしそれについては何も申しておりません。なぜなら、たぶん、ファンだからです。あの人は何を言ってもきっとだめだ。しかしかつて大学生のときに強く片思いしていた女性が「他力本願」を「誤用」したときはなぜか指摘してしまったものです。身についてしまっているのかもしれません。
……ただ、やはり「自力本願」という言葉を用いるのは、考え直していただけませんでしょうか。
これは誤用ではなく日本語の破壊の一つだと思われてなりません。
もちろん、言葉は都度破壊されて新しい言葉が生まれることになっているわけではありますが、しかし「自力本願」という言葉を用いるのは良くないとわたしは思います。 なぜなら、この言葉を用いることで、浄土真宗の他力本願から遠く離れた言葉が定着する一助となってしまうからであり、また、本来の意味にアクセスすることの著しい妨げとなりかねないと思うからです。
誤用から定着してしまった「ひとまかせ」という意味の「他力本願」という言葉が、本来持っていた素晴らしい、本来の意味を知っていくことの大切さには、前川さんも同意してくださっているようですので、お願いしてみます。
……しかし、自分の用いている言葉について他者からとやかく言われるのは、わたしもちょっと、いやかなりいやですから、うまく聞き届けてくださるか、不安です。でも、出来ましたら
「「自力本願(?)」こんな言葉はありませんが……」
みたいな感じでいってほしいです。
とはいえ。
先日、僧侶の仲間が「立ち往生」という言葉をフツーにFacebookで用いておりました。「往生」は浄土真宗を初めとする多くの浄土教でもっとも大切な言葉の一つであり、どちらかというと非常にプラスの方向の言葉なのです。(「死ぬ」とは全然違います。)
しかし「困った」という意味で使われることが最近は多くなっています。大渋滞で「立ち往生」は定着してしまった感さえあります。それで僧侶も用いてしまう。のみならず、わたしが「それはよくないと思う」と指摘すると「他に良い言葉ありますか?」と返信してしまう。自分で考えろよ! と思いましたがわたしは変なので10以上も、かなり真面目に、でもちょっとふざけて言い換えを提案しましたが、どうもそれっきりのようです。
(※ その後、リアルで会ってこの話題になったとき「いやぁ言葉って難しいですよね。そして、やっぱり大事ですね!」で意見が一致しました。前向きになれています。)
ですから、こうやって、浄土真宗とあまりご縁のない方で、それでも浄土真宗の用語を、わたしにとっては「誤用」であっても、それを用いて、他者の心の平安のために活動なさってくださっている方に「その言葉さあ、ちょっとさあ…」とちょっかいをかけるのも、まあ大事ではありますが、相対的には、もっと身内というか、僧侶の方をもうちょっと、何とかしてくことの方が大事かもしれないと思っています。
ぼやきが入って長くなりました。すみません。
どうもありがとうございました。
前川より
私の思いを理解してくださり、ありがとうございました。
また、私も石田さまの思いを受け止めましたので、「自力本願」のクダリは
>「「自力本願(?)」こんな言葉はありませんが……」
のように改めたいと思います。幸い紙媒体には使っていない言葉で、ウェブ上の変更だけで済みますし。昨日から来週はじめにかけて外出しておりますので、来週中を目処に変更したいと思います。
あと、一つご相談がございます。
今回のメッセージのやりとりをまとめたものを、当社のウェブサイトに掲載させていただけないでしょうか?
理由は2つあります。
①他の僧侶の方にもご理解いただきたい
以前にも別の僧侶の方から、当社の名前を変えるべきだというお声をいただいたことがあります。また、今後も我々が活動をすればするほどそのようなご意見をいただくことになろうかと思います。 そこで、私の他力本願の捉え方を示したこのメッセージのやりとりを掲載させていただき、石田さまのようにご理解いただきたいからです。
②他力本願の元の意味を多くの方々へ知っていただきたい
これは肌感覚ですが、他力本願について元の意味をご存知ない方が世の中の大半だと思います。当社のウェブサイトをご覧になられた方もそうでしょうから、その方々に他力本願の元の意味を知っていただく良い機会が作れると思います。石田さまからのメッセージには、私では説明しきれないような他力本願の深い意味が記されていますし、対話形式ですから、より理解が促進されると考えました。
もちろん掲載にあたっては石田さまのお名前を伏せたり、メッセージを修正したりするなどの調整はいたしますし、また掲載内容は事前にご確認いただいたうえでの公開としたいと考えています。いかがでしょうか?
石田さんより
どうぞどうぞ。
わたしも「こういうやりとりがあった。いい人だったんだ。」といろいろ話しております。
前川より
ありがとうございます!
いい人かどうかはわかりませんが(笑)、生きるにあたって誠実でありたいとは思っています。
掲載するとしたら、石田さまのお名前は伏せておいた方がよろしいですか?
石田さんより
出して良いです。ぜんぜん構わないです。
前川より
ありがとうございます。
では、来週以降に記事をまとめて、再度ご連絡させていただきます。
対話は以上です。
つい先日、弊社の通常総会を開いたんですが、この対話をプリントアウトして会員の皆さんに配布しました。我々が命名した社名によって気分を害されている方がいらっしゃるという事実を共有するだけなら口頭でもよかったんですが、やはりこの石田さんとのやり取り自体に豊かさを感じたので、それを共有したく紙に落とし込んで配布しました。
そして弊社の会員の皆さんも心豊かな人たちなので、この対話を読み、石田さんって本当に真摯で素敵な方ですね、と思いを共有することができました。
「他力本願」という言葉を通して、このような心豊かなコミュニケーションが取れたこと、そして私の仲間とその思いを共有できたことは本当にラッキーでした。
終わりに
NPO法人他力本願研究所には、今日もまた、鬱で苦しんでおられる方から連絡がありました。自殺未遂をして入院中とのことでしたので、まずは気持ちを受け止め、そして考え方や生き方のアドバイスを行いました。少しは元気が出てきたようで、また目の前が明るくなってきたともおっしゃっていたので、少しはお役立てたようでホッと胸をなでおろしたところです。
他力本願の元の意味でも、転じて定着した後の意味でも、他力本願な考え方、生き方ができれば、もう自殺未遂なんてしなくて済むんじゃないかと、けっこう本気で考えています。
まだまだ力不足で認知度が低いこのNPO法人他力本願研究所だから、活動の領域もまだまだ限定的です。この名前の誤解からでもいいから、もうちょい認知度が上がれば救える人も増えるかもしれません。そこは相変わらず「他力本願」で、今後も頑張りたいと思います。