最近、他力本願研究所のTwitterの運用を始めました。だから130文字程度の文章で刻んでいこうとつらつら書いていたら、あれよあれよという間に2000字くらいになってしまったので、Twitterを諦めブログに載せることにしました(笑)
Twitterムズカシイ!
以下、つぶやきにならなかったつぶやきです。
マジメな人は手段を選ぶ
会社で課された仕事の量と質が自分のキャパを超え、過労で鬱になったという話をよく聞くが、厳密に言うと原因はそこではないと思う。
自分のキャパを超えたのであれば、そんな会社は辞めてしまって別の手段で稼げば良い。それが転職であったり脱サラ独立であったり、手段は沢山ある。
マジメな人はそうやって自分の置かれている立場を理解し、抽象度を上げて世の中を捉え直し、他の手段を選択する。そうして自分や家族を守り、社会に貢献もするのだ。
従順な人は手段を選べないと錯覚し、鬱になる
だけど、「従順さ」を叩き込まれた人はその選択が困難だ。
「一度任された仕事だから、これは最後までやりきらなきゃならない。」
「あの時上司にお世話になったから、今度は自分が頑張る番だ。」
そうやって自分の限界を超えているにも関わらず、その仕事に囚われ、そして心身が蝕まれる。
またこの「従順マインド」の人は特定の人に従順になるだけでなく、社会にも従順になる。そうして常識に囚われる。世間体を気にする。自分を出せなくなる。ストレスを溜める。鬱になる。
加えて言うと、従順であるということは自立の対極である。つまり、一人でできることが少ないのだ。だから仕事を変えるにしても、自立している人と比べると選択肢が極めて少なく、限界を超えても同じ環境で従順にいるしかないと錯覚し、鬱になる。
マジメな人が鬱になるのではなくて、従順な人が鬱になると私が言うのはそういうこと。
そしてその「従順マインド」こそが鬱の原因であって、会社の過労はキッカケである場合が多々あると考えている。原因とキッカケは別のもの。
「従順マインド」は教育で刷り込まれ、脱却が難しい
そしてその「従順マインド」は、親や先生から受けてきた教育や、社会からの見えない圧力によって醸成されていると考えている。厄介なのは、一度醸成されたマインドからは、そう簡単には脱却することができないこと。本当にこれが難しい。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもんで、特に若い頃から醸成されたマインドセットに変革をもたらすのは難しい。だからこそ幼児教育が大切なんだ。「教育のコスパが最も高い年齢は0歳児で、歳を重ねるごとにコスパは下がっていく」というレポートがあると聞いたが、そりゃそうだろう。
私は鬱になってそのマインドから抜けた
なぜ私が鬱になってよかったと感じているかと言うと、この「従順マインド」から脱却できたから。ブログで「鬱は創造的自己破壊」と表現したのは、自分の心が一旦壊れてしまって、一からまた新たに創り直せたことを表している。壊れないと、このマインドから脱却できなかったかもしれない。
「主従マインド」の一掃
その経験があるからこそ、今の私は鬱に対して肯定できるものの、とは言えできればそこまでしんどい思いをせずに楽しく豊かに暮らせる世の中になればいいじゃないかと考えている。それは「従順マインド」を世の中から一掃することだし、広義で捉えると従わせている側を含めた「主従マインド」の一掃でもある。
そう、従わせている側も変わらないと、この世の中から「従順マインド」は消えないのだ。
「私はあなたに従わないし、あなたを従わせない」
「私はあなたの自立心を受け止める」
「とは言え、あなたがしんどい時には甘えてよ?」
こういう人が増えた結果、多様性があって生きやすい社会になるのだ。
だから子育てや学校教育の重要性を感じるし、鬱になりにくいような子育てや教育を社会に訴えかけたいところではあるが、支配する側の人間たち(親、先生、上司、経営者など)にはなかなか理解されない。
この「主従マインド」の一掃で得られる価値を理解したところで、彼ら支配する側にとってそれは一時的に不都合な真実であり、容易には受け入れられることはないだろう。私は元「主従マインド」の経営者であり、親だったから、その感覚がそれとなくわかる。
まずは身近なところから「主従マインド」の世代間連鎖を断ち切っていく
さらに厄介なのは、道徳的に「主従マインド」が正しいと教え込まれ、従順に生きてきた人は、人を管理するポジション(マネージャー、親、先生など)になれば、何の迷いもなく人を従わせようとすることだ。「自分もそうされてきたし、当たり前のこと。」と、特に考えることなく「負の世代間連鎖」を起こしている。
この思考停止による「負の世代間連鎖」が、この日本社会から鬱が消えない根本であって、私はこの連鎖を断ち切るアクションを起こしたいと考えている。
とは言え私はただの一般人だから、社会を変えるという大それたことができるとは思っていない。だからせめて自分や家族、そして自分を慕ってくれる人たちだけでも、健やかに豊かな暮らしをしてほしいと願っているし、そういう目の前の人を大切に生きていきたい。